昭和43年02月01日 朝の御理解
お道の信心を頂いて参りますと、おかげは絶対のもの、その絶対なものでありますけれども、それは絶対によく出来ると言う事ではない。分り安く頂いているそれはここの場合を言うのですけれども、いうなら神の姿ににも出て貰い、皆さんが竜宮道は絶対だと言う卒業みない限り、卒業してけれどもそのう神の姿にそれこそしがみ付いてさえおりゃそれは確かに鯛である。こりゃもう竜宮城を開いてしかし途中で降りたり少し波が高くなって来たり、こりゃもう本当に竜宮に行ききるだろうかと。
いわゆるその、疑心暗鬼、疑うてするから外れていけばしかたがない。けれどもこれは絶対、今後絶対のおかげを皆さんが、いよいよ絶対なものにするために、いよいよ信心の稽古をしとかなければいけない、浦島太郎のそれこそ夢のような毎日を過ごさせて貰う様なおかげを頂いて。いよいよ、いよいよそこを発つ時に乙姫様の玉手箱を頂いたと、そしてからこれを開けてはいけませんよと、と言うたとに係らずそれを開けてしまう所に。一瞬にしてもとのもくあみに戻ると、言うならば白髪のお爺さんになった。
ですからこれから先の所をですね。そういう事のないための浦島太郎、そういうおかげを持続して行く事の為にしっかり信心して、信心の稽古をさして頂き。そこのところ信心とは神徳を受けるる事だと。そして神徳を受ける信心がいうなら亀の背中に乗っておる間に、本当は深めていかなければなければいけないと思うですね。親先生は絶対なんです。親先生任せ、けれどもここは任せるけれども、ここは任せられないと言った様な事じゃいけません。任せると言ったら任せ切らなければ。
そこにおかげは絶対なのです。そこは私しは、まぁ( ? )( ? )おかげを頂くことには請け合うけれども。おかげを頂くそれは徳になることはない。徳になると言うのはそれからなんです。それまでにまたは徳を受けての信心はしっかりしとかんとやりそこなう。思わず知らずこれはしていかんぞ、こうしちゃいかんぞと言われてる事を忘れておる。そして玉手箱を開けた浦島太郎の様に、一瞬にしてもとのもくあみ。白髪頭になってからではならん。
私しは今朝方こう言う様なお夢を頂いた。(流水)のものにはあまりにも広い(流水 )まぁ湖でしょうね。それが瓢箪の形をしとる湖です。それでその瓢箪の中のあの胴ん所が大体もっと短くして、小さい畦道のようなけれども、水が豊富ですから水が畔越をしておる。ですからもう一つの湖の様な形になっておる。( ? )どういう水かというとですね。皆さんはあのう見られたことがあるでしょうか。椛目のこちらの方に( ? )( ? )たら、金気なんです。金気の池なんです。
岸の縁が赤うなって、はぁこの水は金気だなぁと私は思うておる。してみるとそのうこの池にですね。綺麗ぇにこう荷造りしたボール箱したごたるとがその幾つも放り込んである。私しは思うのに、ははぁここに中に汚いものを入れて捨ててあると言う感じ。こう荷造りはしてあるけれども、なかに汚いもの入れてから、捨ててあるという感じ。こりゃ荷造りはしてあるけども、中に汚いものを入れてから捨てたあるという感じ。それでそこん所にあのビーズの様ないがいがしたものが何か魚か何か簡単なものが。
魚かなんか飼うためにこんなもんを入れてあるのかな。それで私しが足をつっこうだらどぶずぶずぶと入って、やはりそのう塵が溜まっているというか、そして私がいよいよ抜こうと思ったんです。その水藻やらがたっておるもんですから。足が水藻にジガジガする。これを池を一遍さらえにゃいかんけれども、とてもどれだけのさらえるだけの池じゃないなぁと私は思うた。
そして私しはその畔越しをしておる、表面の泥の様なところが元は道だったと言う様な道がもう畔越をして、こう行ってそこだけが浅いから、そこをこう歩いて行ける様になる。こうして歩いて行きながら、羽織袴をつけたまま、こう横泳ぎにすうと入って来たらそこから、ズーとどうしてこんなにスイスイと泳がれるだろうかと言うて、その池の真ん中まで泳いで行ったところで目が覚めた。
そしてそこには勿論もう綺麗なあの、何と言うですかいろんなもんをしちゃない、きゅうなところに汚いものが投げ込んであって、なかは汚いという私し今朝からその事をこう思いましたから、ちょうど神様頂きましたもうお夢のお知らせは、どういうものでございましょうかと言うて、お伺い致しましたら。私は行った事がないから知りません。けれども、この頃秋永先生が参りました。原鶴に平田さんが利用されるところの温泉ホテルがある。旅館がある。
かねげんという旅館。かねて金光様の金ね、金とそして源という、金源と頂く。ははぁ金源と言う事は、いわゆる金の源となんです。水はいつも恵むと言います。しかもそのうお恵みの水がですいわゆるもう、金気でいっぱいなんだと、神様が合楽の信奉者全部に下さろうと人は、皆とにかく一人一人に、億万長者のおかげを下さろうと言う願いを持っておられると言う事ですよ。いまお一人一人だから皆さんここを疑うたら、いわゆるその浦島太郎の事の言わば、金にはなられん。親先生任せになられん疑うたら。
それこそ汲んでも汲んでも限りない金の源であるとこの、この金源。そういう今年はおかげを頂けれる、お広前に皆さんは御縁を頂いておられると言う事です。親先生任せになられるそういうおかげを頂かれる。ところで頂いたそのおかげが問題なんです。そのおかげがです、頂いたそのおかげがです、却って難儀なもとになるだ、困ったことになる様な事であってはなっらんのだと。今日私げいうそれから先の事を言う。浦島太郎が竜宮に行く事はもう絶対なのだけれど。
それから先が、ね。そこをさよならしてから、私しは自分の家に帰るところからが大事なのです。ここうしちゃいかんぞ、ああしちゃいかんぞと言われておるそれがです。守られない事がある、それがいわゆる乱費される。わからないお金が要らん事に使われる。神様がお喜びにならない様な事に、まぁ例えば使われる様な事になったんでは、またおかげを落とすか非を見るよりも明らかなんです。だからそこんところをです、お徳を受けとかなければ出来んのだと。
だからそういう頂く前にそこんところを一つ体得さして貰い、そこんところのおかげを頂いて置けと言う感じなんです。そこでならどういう信心をさして頂くか。御理解24節「人にさそわれてしょうことなしの信心は付け焼刃の信心じゃ。付け焼刃の信心は取れやすいぞ、どうぞその身から打ち込んでの、真の信心をせよ。世に勢信心と言う事を言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢かけ声をかけて一度に力を揃えれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中勢を揃えた信心せよ」と言う事になる。
御理解24節、人に誘われてのしょうことなしの信心は、付け焼刃の信心じゃ。どうぞその身から打ち込んだ信心をせよ。付け焼刃の信心じゃいかん。銘々がその気になると言う事。こうして朝参り朝参りを貫き、皆んなその気にならして貰うんだ。付け焼刃じゃいかん。その身から打ち込んだ信心をして。しかもそれでもおかげが受けられんなら、これはまぁだ自分の信心が足りんのじゃという事だけではなくて、これは子供にもしっかりやってくれ、家内も頼むぞと言う事になってこなければいけないと言う事。
一家中が勢を揃えて、その事に打ち込まれた信心を、しかも一家中が勢を揃えての信心でなからなければいけないと言う事。私はここを頂いてですね、やっぱそうだろうなぁと思うんです。例えば主人が一生懸命信心してるなら、億万長者になったと致しましょうか。主人の信心が分ってからのことでございますから、おかげは落しませんけれども、家内が何ていいよるか。子供達に要らん事に使う。例えていうなら、成程これがおかげを落とす筈だとおもうんです。
いかに一家中が勢を揃えて、しかもその身から打ち込んだ信心を銘々がしておらなければいけないかと言う事が分る、今日は皆さん億万長者になる話ですから、ここんとこようと頂かにゃいかん。こりゃもう絶対なんです。おかげです。しかも神様はですもうそういうおかげを、合楽の上に下さろうとしておる、その時期がもう来ておると言う事です。今日私がお知らせ頂いておる事。どうぞその身から打ち込んだ信心、しかも家族が全部が勢を揃えて。一人で持ち上がらんでも大勢かけ声を揃えて。
力を合わせれば大きなものでも持ち上がる様なおかげになる。一家中の勢を揃えての信心から生まれて来るんだと言う事。世のなかに、世の中と言う例えば皆さんが知っておる限りの、本当に偉大なおかげを受けておると言う人達に目をやると。それこそ。甘木の平田さん当りもそうでしょうが。それこそ平田さんも有名だけれども、奥さんはもっと偉いと言う位に信心が出来ておる。子供達も言うに及ばん。
もう自分の娘、娘婿たちまでがしっかりとした信心を頂いておる。いやもうおかげが漏れようがない。天地金の須田先生のところでもそうでしょう。一家で中で勢を揃えてしかもその学者の家でありながら、その勉強されておられる、その化学というかね。工学科をされておる、そういう学問と信心とが対立しない。一つになっての信心、しかもまぁだなら今度倫太郎先生なんかがです。御話し伺いますとそれこそ御用一筋におかげを頂いておられるだけでなくてです。
ほとんど毎朝水行なさる。お水を被ってから一日が始まると言われておる。2月の今日は朔日、いつも2月の一日になりますと、2月の朔日の日はやっぱりお参りが多い1日を通して。先月は本当に広大なおかげを頂きました。今月もどうぞよろしゅうお願いします。と言う様な部類が多いんです、金光様の御信心はそんなこっちゃいかん。今月もどうぞよろしゅうと言う様な信心じゃいかんのです。金光様のご信心は、どこまでももう今月今日でなからにゃいかんです。
もう明日のこっちゃないです。今月今日どうぞいわゆる今日という信心でなからにゃいかんです。それこあなた宮地岳さんじゃないけど。三社参りなら三社参りに、元旦なら元旦の日にお参りさして頂き、一年間な金に不自由しないおかげの頂けるという神様とはいわば意味が違う。昨夜が私しがちょうど昨日で3日、こうそこまでがとにかく、須田先生がたてられた明くる日から風邪ひいた、それでもう油断ていいますかね。張りつめておったものが、こうゆるんだらもう風邪引いた。8時ころからやっぱ夜の御祈念も御無礼しておかげを頂きました。
そうしておりますともう腰がいたいんですね。それで私し御祈念のちょっと前くらいに、ここまで出て来まして、そしたら久冨繁雄さんが、はぁもう参ってきとるなぁとこう思わして頂き見えとりました。ものも言いませんけど見えとった。それで繁雄さんすぐ私の所へ来て下さってから、ちょうどここんところを間違えない様に皆さん聞いて下いよ。ほんとに皆さんあのう先生は、何と言うですかね。まぁ傲慢無礼なものだと言う風に頂かずに、私しの心を一つ分ってもらわにゃいかん。
私しの足腰を揉んで貰うとか、もうほんとにまぁ言うならば傲慢無礼だと、よその人が聞いたら、はぁいま大坪が少しばかりおかげ頂いとると思うてから。慢心と言うに違いはないのです又本当にそういう形なんですね。毎晩、足腰を揉んで貰っておる。けれどもここに私しもおかげを頂くなら、久冨さんもおかげを頂いてもらいたいのです、私しは。あなたはここより外には御用はない、そこまで私しは御祈念するんです。それで私しは待てど暮らせど、それこそみえません。
もう私しがひとりでうっついて私し、神様私の考えが間違っておるでしょうか、夜の祈念にお参りして来て、また夜の御祈念を頂かれ。そこが繁雄さんだけはそうじゃないと私し繁雄さんだけはそうじゃないと、私しはこう思うとる。繁雄さんは拝まれる事よりも私しの傍で御用をされる方がおかげだと。私は思ってるんです。それに見えませんもんですから、私しはそこの中で御祈念さして貰いよりましたらですね。頂きます事に。ここんところの最近の信心の総仕上げの様な感じの御理解でしょ。頂かしてくださいよ。
あのう大きなそのう昔あのう。今でもそうですけども、この頃記念祭にお供えしました、あのう化粧箱の被った、お酒樽があるでしょう。あの酒樽を頂きました。その横にですね。御幣がたつお道じゃ使いませんけれど、お宮さんなんかでこう、こうした御幣というのがあるでしょう。その御弊が立つ。してよくよくその酒樽をみますとですね。もう中に入っあのひねりがこうひねりがこう抜いてあるのです。だから仲が入ってないなぁと言う事が分るでしょう。
酒樽であるけど中に酒は入っていないと言う事なんです。それから私また改めてそこにき向き直りましてからですね。寝ながら頂いとる、起き上がってから御理解を頂きました。そしたら今繁雄さんの対してから、私しの思うた事に対する御返事を下さっておる訳なんです。段々信心がさして頂いますと。皆さんは御用をなさいます。又はそのういろいろ御用すりゃ助かる、と言った様な気分の事さえ私しも習うて参りましたですね。ここでは、成程御用すりゃ助かる、御用すりゃおかげを頂くと言う。
そういう意味もやっぱりありました。おかげを頂く、そこで私しは最近言っておる事は、段々信心を分らして頂いて、先ずおかげを頂なさい。おかげを頂きゃ有り難うして堪えんごとなる。どうかですからそういう人の話を頂かして貰うて、それで私しはここまで皆さんにいつも言う訳でしょうが。その有り難い勿体無い、おかげさえ頂きゃ有り難い勿体無い、おかげさえ頂きゃお互いはぼんぼんするなて言ったっちゃする。御用はするなって言うたっちゃする。せにゃおられん。
だからそう言うおかげが本当なんです尊いんです。けど今日私が言うのはね。それよりももっともっと尊いほんとのことなんですよ。例えばなら久冨繁雄さんに、例をとるとです。御祈念をせずに私の部屋に見えて、なら足腰揉まれる様な御用なさる。喜んどるとは私だけかも知れん。繁雄さんはほんとはひとっつも有り難くないかも知れん。けれどもですね、それがね、有り難いものではなくてもですね。それが当然の事としてなされるときです。それが当たり前の事としてなされる時です。
これはもう最高の御用なんです。そこにはもう有り難しも、勿体なきもいらないのです。魚の皮でもかまわん、それを私しが言うておるいわゆる還元の生活だと。もう当然あたりおかげを頂いておる、有り難い気がすると言うのとまるきり違う訳なんです。この御用はもう私より外するもんななか。当然あるでしょ。そこなんです。それが本当な本当なんです。ただなら秋永先生当りが午前なら午前の時にです。一生懸命御用なさいました。
けれどもそのう、毎日毎日出て来ることが私しゃ恐らく、有り難いと言う事じゃなかったと思うんですよね。もう帰る時には一日御用頂いた有り難うして堪えんじゃったと言う事じゃなかったと思うです。またこげなおかげを頂とるけん、有り難い勿体無いが交差して頂いとるもんではなかったと思うんです。そういう例えばそれは、御造営委員長としても与えられた事として、与える前の事がなされて来たんです。御用ではない、この御用が最高の御用だと言う事。
私は昨日まぁ大変な事を何となく解っておったけれども、そういう表現をもうおっしゃらない。もうそしてそのうこの、ごひれいの事ことはどういうことだとね。祈念祈祷で助かるのじゃないぞということなんです。繁雄さんあんたが今晩の夜の御祈念を幾ら拝んだっちゃつまらんち。あんたは拝まない。拝んで助かるみちはないんだこの道は。話を聞いて助かる道なんです。話はこういう話を聞くもんなんです。そして当然私はこの事は当然私しは御用させて頂くことになればです。
有り難いも勿体無いも伴わないでも、それが最高の御用である。それが還元の御用になって来るのだと言うこと。まあぁそうだなぁと私は思うた。それこそ当り前の事としての御用がなされる様にならあなければいけんのですよ。当り前事としての御用なんです。はあぁもうおかげ頂いとるけんこんくらいのこたぁせにゃん。朝はお参りさしてもらいよるけん偶ぁにゃこうしてお供えもせにゃん。
まぁせめて月次祭だけ位にゃこげんせにゃん。と言ったもうそれがですもう当たり前にしなさる。月次祭なら月次祭にこげんしてお供えするのはもう当たり前。そこにはね、有りいものが伴わなくてもいいと言うところに、素晴らしい事になって来るでしょうが。当然の事としての御用なんです。そういう私しはです、御用がもう当然の事としてなされるようないうならば、最近お伺いさして頂いたあのう須田先生の御信心なんです。あぁ言う信心がしかも一家を勢を揃えての信心。
そして御用がもう当り前の事として、それがなされていく。そういう信心をです身に着けて竜宮行きをし、そして玉手箱を貰うて帰らして頂くと言う様なおかげになればです。いわゆる絶対なものであると言う事です。今合楽にはそういうおかげを皆さんに頂いて欲しいと言う、切々たる神様の願いがあると言う事。寒修行中に須田先生を差し向けられたと言う様な事は、もうそういう一つの大きな神様の願いであったと言う事。
そして今言うこの瓢箪池にそこに湧き出ているものは、いわゆる金気の水ばかりだと言う事。皆さんが金はいやしいものだと言うけれども決して、お徳の伴のうた金ならば尊い。必ずしもその日暮らしでなくてもいい。その例えば億万の金がです。銀行にいつも入れてあって。それが例えば有り難い事に利用される時に、それが本当の御用なのである。何故かね気とかね気と神様は言うて下さるだろう。そんなに皆さんはです。周囲にいっぱい持っておった所で、まぁ2人前か3人前御用が出来たらどうですか。
つういっぱいでしょう。雑巾掛けなら雑巾掛けの御用一生懸命さしてもらう。結局ひとり前しか出来ないでしょうも、健康なら健康な時では。所がお金の伴いますとですね、自分がそのお金によって、10人でも100人でも使うことが出来るんですよ。ははぁ成程こうお金はお徳が最高だと私し思いましたよ。御用さしてもらうと。で皆さんもそうでしょうが。私がなら御用に行かんでもいい。
うちの番頭10人なら10人連れて参ります。お金。そすと10人分の御用が出来るわけです。ははぁ人夫さんを私しが50人雇わしてもらいます。というたら一人で出来ない事は、50人の力で出来るでしょう。こりゃ何かというとお金の力。そういうことが段々分って来ると、こりゃどうでもこうでも、金気のこの水を汲まなきゃならない、と言う事になるのですよ。だから岸の方から汲まんな中に入って、汲まして頂くと言う事も大事ですけれども。
今その入り口に捨ててあるもの、埋もれておるいわゆるさらえなければならないもの。ここんところも、私しは大事な様に思うのです。そういう汚いもの捨ててある物を拾い上げたり、ごみくずの様なものでいっぱいなそれを、そこんところの細工して貰うところのおかげをですね。言わせて貰わなきゃならない。そして家をその直下からのところからでも不自然にならないですね。おかげを沢山の人のためにおかげ頂かにゃいかん。お金や真ん中へてをだして行く。
日本一を誇っておる玉水教会なんかそうなんですよ。入口までいっただけでおかげ頂くそうですよ。あすこの門柱にこう八波のご紋章がこう。それをもう皆んながそれをいんかしてお商売に出る行きがけにですね、お参りをする、お賽銭も上げて行く。これを撫でて行くこれをば撫でていけば商売ばあるち、これは迷信じゃない。そういう確信を持っている、大阪の人達は。ただそこに玉水さんの有名なのはそこにある。玉水さん、金光様とは言わん。玉水さん玉水さんと言う。
これなんかも入り口でこげんしてるという感じでしょうが。そういうおかげもですね。私、沢山頂いてもらわんならん。ためにはそこに汚いものを持ち込んでおったり、いがいがのもんがあったんではです、入る事も出来ません。ならお互いが向うの方へ行くに致しましてもですよ。ですからこの本当に改宗のためにもですね、沢山のためにもここんとこに冴えてみえることがどう言う様な事だろうかと。皆さん考えさして頂いてですね。おかげをいただかしてもらう。
今こそこの教典けんわいちょうのところの金気の御恵みをですね、本気で頂かして頂く、そしてもうその頂いたそのおかげが、子々孫々にも徳の裏付けがあるものとしてです。御役に立つ様なおかげを頂かして頂くために、皆さん是をこれを徳をつけとかにゃいかんと言う事。その徳と言うのはどう言う事かと言うとです。一人だけが受けたんじゃ詰らん。一家中のものが勢を揃えて頂いたお徳じゃなきゃ詰らん。なぜか、主人が幾ら頂いておっても、家内がおかげを落とすような事をする。
息子がろくでもない事に、例えばお金を使うと言った様な事でね。お金お金とこう言うておりますけれど、お金に使われた事じゃないです。お徳をね無くしよると言う事。ね。お徳を傷つけると言う事。そこで一家中が勢を揃えた信心にさして頂いておればです。それがない事になってくる。そこで御理解24節をです、私しは実はこう言う様な事がですね。今、私しはあの皆さんにお話し半ばに、今の御理解頂いたんですよね。御理解24節を。教祖の神様はどう言う風にそれを表現しておられたかと言う。
そげな御理解聞いたことも見た事もないですもんね、実際は。けれども教祖の神様はどう言う風にそれを、なら御理解頂かにゃそれを頂かれておられて説いておられるかと言ったら、全然思いもかけない御理解24節なんです。なるほど付け焼刃の信心じゃいかん。その身から打ち込んだ信心。しかも勢を揃えて。なるほど教祖はそういうふうに表現しておられる。そこに次に絶対なもの、ね。絶対なひとりで持ち上がらなかった様に思よったものが、楽々と持ち上がる様なおかげになる。
そのおかげが又、浦島さんのその竜宮から帰られる、その先の事をですね、今日は私しは申しました。それがあぁららと言う様な事にならないようなですね。おかげを頂くために今しっかり。信心とは神徳を受けることであるとして。信心を励んどかにゃならん。積み上げておかなきゃならない。と言う事をこう申しましたですね。きょうのね。それ何時もの事ですけれどもです。ほんとに神様がね、合楽に御神縁を頂いておる一人一人に、皆さんがた私がそこに守備ではありなさいますけれども。
もう一日追われるとですねもう頂く筈なかです。えらぁい先生が大きな事ばっかり言いなさる。言う様な顔押して聞きよる人がある。そげな事じゃないです。神様は本当に合楽に御神縁を頂いておる一人一人です、億万長者のおかげを頂かしたいという願いをもう切々と持っておられると言う事です。だから私が言う様に信心さえさして、私が言う様な信心をさして頂きさすりゃ、神の姿にしがみついて行く信心さえして行きゃですおかげが受けられると言う事。そこんところを皆さんに聞いて頂きましたね。
どうぞ。